column コラム

オリンピックとビジネススクール講師評価

連日TVで北京オリンピックのスポーツ観戦をされている方も多いかと思います。日本のアスリーツに声援を送りながらも、つい引っかかったことが1つ。それは時間や距離などの客観的な判定基準に乏しい競技ほど避けられない主観的ジャッジやもっと悪く言うとミスジャッジ、または国民感情を背景にした恣意的なジャッジです。 「開催国有利」ということは確かにどのスポーツでも起こりえます。それは少々感じた。しかしこのことよりも、もっと私が心を痛めたのは柔道のスポーツ化と、審判が勝敗を些細なことで決定してしまうばかばかしさでした。相手と組み合わずに、タックルを繰り返し、かけ逃げすれすれで、できれば「攻めている」印象だけ審判に与えて相手への指導、反則を取りに行く選手。田村も初戦で敗れた多くの男子選手もこれで涙をのみました。まるでレスリングの試合のようで、この手の試合は見ていても、全く面白くない。細かなポイント制にしたおかげで、本論と関係ないところで勝負が決まるというもどかしさ。胸のすくような「一本を取る」柔道を実践できたのはほんの数名の選手だけでした。 井上康生は「自分はスポーツマンではなく柔道家だから」とコメントし、この「スポーツ化」を嘆いていました。しかし、このスポーツ化こそ現在のJUDOの流れを作っている JUDO Committeeの方針なのです。日本人選手がある種目で工夫して勝ちだすと、すかさずルール改正して阻むという話があります。かっては背泳ぎのバサロであったり、ノルディック種目、スキーのジャンプなど例示に暇ない。これはスポーツインテリジェンスともいうべき情報戦、政治戦で日本が負けているともいえます。ただし、私が聞いたのは悪い話だけではなく、「バサロはずっと潜水していると観客が何が起きているか良く見えなくてつまらないから」という理由で、これは納得感がありました。つまりスポーツには「やる側」からの意識だけではなく、スポンサーも含めお金を払って「観る側」の意識も必要ということ。オリンピックの商業主義的側面が分かりやすく出てきているということでしょう。スポーツマーケティングの世界です。 であれば、日本柔道連盟の幹部は現在の「スポーツ柔道」が、いかに観る側にとっても「つまらない」もので、やる側の、特に子供にとってやる気にならなくなるルールなのか ということを、世界規模でサーベイし、 FACT BASEで JUDO Committeeのフランス人トップを説得すべきです。その調査とロビイングをしている間は少々時間がかかるだろうから、「一本勝ち」をこだわるのも良いけれど、選手にタックル防御法くらいは身に着けさせてほしい。でないと「俺達は柔道家だから」なんていう理想論ばかりでは勝てない。勝ちたくないのならそれでいいけど。 こう考えていたら、このスポーツ化、細かな、ばかばかしいポイント制は身近にありました。私の教えている企業研修やビジネススクールでも、「全体として、深い学びがあったか? 実践できそうか?」という本質論以外に、「時間の配分は適切だったか?」とか、「シラバスどおりに進行したか?」など、およそ本質とは関係ないポイントも評価されていて、私の全体評価の足を引っ張っていました。確かに私の講義は興に乗ると暴走気味で、それが受講生に受けている要素でもある。受講者のキラキラした目をみて、学習意欲を意気に感じて講義延長をすると、アンケートには時折「休み時間が少ない!」などと不満書き込みが、たまに、少数あって、それがおおげさにフィードバックされます。 それらを見て一瞬、「今度から時間をちゃんと考えて、シラバスどおり講義しようかな・・・」などど考えてもいたのでした。 ダメだ。やはり私は「一本勝ち」のほうが性に合っているようだ。 私は一本勝ちの日本柔道を支持します。